勝山城のデータ
| 城郭別名 | なし |
| 曲輪構成 | |
| 縄張形態 | 山城 |
| 標高(比高) | 571m / 100m |
| 築城主 | 不詳(小山田信有?) |
| 築城開始 | 不明 |
| 廃城年 | 1704年(元禄17年) |
| 改修者 | |
| 城主 | 小山田氏 |
| 遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀 |
| 文化財区分 | 県指定史跡 |
勝山城の遺構

勝山城の西を走る中央自動車道沿いの農道のような道から入った。

登る。

なかなか急傾斜。
足元には気を付けて下さい。

経路案内は最低限ある。

写真を撮り忘れたが、「熊出没注意」という看板もある。
気を付けて下さい。

西口から登り、下から本丸を見る。


本丸内部。社がある。





見晴らし・眺望は、とても良い。

勝山城東側は、桂川が流れている。その向こうの家々が見える。


本丸の傾斜。
とてもキツイ。

休憩スペースあります。

近隣住民の方々が、山菜取りをしていた。
春頃は、山菜取りが良いらしい。

山菜で天ぷらも良いだろう。

撮ったとされる山菜を撮影させて頂きました。


勝山城の外観。

画像左側は、中央自動車道。
勝山城の出入口にしていた場所。
手前は、道路のカーブになる。
カーブ部分は、車を置けそうなスペースになっていた。

勝山城の外観。
勝山城の歴史
小山田氏の時代
勝山城の築城は、不詳です。
都留郡一帯は、小山田氏が勢力を持っていた。
享禄5年/天文元年(1532年)には、小山田信有が勝山城の近くにある谷村館に本拠を構えたことが「勝山記」で確認できる。
この頃には、小山田氏は甲斐武田氏に臣従していたようだ。
勝山城が、岩殿城に代わる詰め城として考えられる説、
勝山城は中津森館に代わる城砦とする説がある。
中津森館は、吉田・忍草方面から大月へ抜ける桂川の西に位置する。
小山田氏は、天文13年(1544年)の後北条氏との同盟での取次を行っている。
小山田氏は、武田氏を裏切るが、小山田信茂が処刑され、国衆・小山田家臣も解散。
織田家家臣・河尻秀隆の時代
甲斐は、織田家臣の河尻秀隆に与えられる。
しかし、6月に本能寺の変が発生。
河尻の悪政のために一揆が発生し河尻は処刑される。
滝川一益、森長可など旧武田家遺領を任せられていた他の織田家家臣は撤退。
甲斐国も空洞化し、旧武田家遺領は、徳川・北条・上杉から切り取られる。(天正壬午の乱)
天正壬午の乱と黒駒合戦
徳川家は甲斐国南部の河内領、北条家は甲斐国郡内を調略する。
北条氏直は若神子城へ本陣を置き、織田軍と八ヶ岳南麓・七里岩台上で対峙。
8月9日、北条軍は笹子峠に布陣していたが、徳川軍の背後を狙い大野砦を侵攻。
8月10日、小田原から北条軍が本栖城を攻撃。
8月12日、北条氏忠が谷村館?から御坂峠を越えて黒駒へ入る。
徳川軍は、上黒駒で鳥居元忠隊が迎え撃っている。
北条氏忠は、撃破され撤退した。(黒駒合戦)
『治世元紀』『武家事紀』に、谷村館に拠点を置いていた可能性を示す記述がある。
御坂城は改修された記録があるが、谷村館・勝山城は不明。
10月29日、徳川北条間で同盟が成立し、後北条氏は甲斐国から撤退。
徳川家は鳥居元忠を郡内に配置し、鳥居元忠は岩殿城を拠点とした。
豊臣氏時代
天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡。
天正18年8月1日から天正19年(1591年)2月中旬まで羽柴秀勝、
天正19年2月中旬から文禄3年(1594年)1月17日まで加藤光泰、
文禄3年2月初旬から慶長5年(1600年)まで浅野長政・幸長が配置されている。
勝山城までのアクセス
電車で行く場合
富士急行大月線「谷村町駅」から10分
勝山城の踏破は、30分~1時間程度を目途にすると良いです。
車で行く場合
大庭城の西側に駐車場があります。
| 住所 | 山梨県都留市川棚 |
| 駐車台数 | 3台(しかし駐車場まで道が狭い) 市役所に止めさせてもらった方が良いかも知れない。 |
| 営業時間 | なし |
| 料金 | 無料 |

